Old photos and my memories of Nishi-Kawaguchi. From 1995 until 2001.
最近、昔の懐かしい写真をブログで公開なさっている方があるので、私も真似してみたいと思います。写真の発掘は難しそうですが、情報(私の思い出)だけでも、少しずつ拡充していきたいと思います。
私はかつて、1995年から2003年にかけて沖電気という会社に奉職しておりました。そして、1995年から2001年まで、当時、西川口にあった会社の独身寮「南蕨寮」に住んでいました。西川口というのは JR の駅名で、市町村で言うと、埼玉県蕨市、川口市、戸田市の近くにあった駅です。
私が就職した当時、同社には多くの独身寮がありました。私の知るだけでも、以下があります。
- 南蕨寮(埼玉県蕨市南町)
- 蕨寮あるいは第二蕨寮(同中央)
- しらとり台寮(横浜市青葉区しらとり台)
- 小金井寮(東京都小平市上水南町)
- 七本木寮(埼玉県児玉郡上里町七本木)
- 目黒寮(東京都目黒区下目黒)
余談: いくつかの寮は、会社の事業所や研修センタ等のそばにありました。蕨寮は蕨の開発センタ、小金井寮は小金井研修センタ、目黒寮は目黒研修センタ(あるいは目黒クラブ?)のそばにあったと記憶しています。
まずは地図
写真の説明
はじめに
拙作「TI DSP ソフトウェア設計のファームロジックス | 小田急相模原、昔の写真」に続き、昔の西川口(埼玉県蕨市、川口市、戸田市近辺)の写真をまとめておこうと思い立ちました。残念ながら、当時はデジカメのメモリが高価で、あまり多くの写真がありません。また、当時は食事の写真をデジカメで撮影するなど、ほとんど思いも寄らない時代でした。さらに、EXIF が普及する以前の写真もあり、撮影日時が明確でないものも多く、その点は御容赦ください。
1997年12月
沖電気南蕨寮の中
撮影日は不明確ですが、1997年の11〜12月頃と思います。ソニーの初期のデジカメを購入し、嬉しくてあちこち撮影したのだと思います。(撮影: 1997/11〜12)
寮の玄関です。正面は事務室で、当時は S さんという寮長でした。左手には下駄箱がありました。
玄関を背にしたところです。正面が食堂、その右手に郵便受けが見えます。この右手には、お風呂と電話交換機室がありました。
1998年1月
大雪の日
撮影日時は不明です(1998年の1月?)。大雪が降ったようです。
余談ですが、ここは蕨市と言っても戸田市と隣接し、川口市にも近いです。写真は、寮の窓から戸田市のほうを向いている景色です。
2000年4月
沖電気南蕨寮(閉寮)
南蕨寮の入口です。(撮影: 2000年4月2日)
私のお世話になった南蕨寮は、2020年現在、完全に建て替えられ、高齢者向け施設になっています。電機メーカーの独身寮がお年寄りの施設に変わる、というのも、日本社会や経済の変遷を如実に現しているようで興味深いところです。
寮には賄いが付いていました。私の朝飯は次第に立ち食いそばや吉野家になりましたが、夕飯は割と寮で頂いてました。寮は、地方支社や関連企業社員が東京出向(出張?)時の宿を兼ねていたようで、よく年輩の方が食堂で夕飯を食べていました。寮の夕飯は、カレーライスが美味かったのを覚えています。閉室間際になると、オバチャンが「遠慮しなくていいのよ」と山盛りにしてくれたのを覚えています。写真がないのが残念。
南町桜まつり
例年、桜まつりを寮の部屋からタダで楽しめましたが、酔っ払いがうるさいのが難点でした。(撮影: 同上)
なお、最初の 1枚は桜まつりのものではなく、寮の東側にあった公園の桜です。
蕨市立図書館
当時、まだ勤勉だった(?)私は、よく休日に図書館に通ってました。その当時の写真です。(撮影: 同上)
そば処 満留賀
近所にあった、蕎麦屋さんです。(撮影: 同上)
当時まだ若くて食いしん坊だった私は、ここでよく、同期と蕎麦とうどんの「両盛り」を頂いていました。なお、このお店はまだ健在のようです。
思い出とトリビア
独身寮編
- 私が入寮した頃は「沖電気南蕨寮」だったが、退寮した頃は「リベルテ南蕨」とかいう名前になっていた。岡村孝子じゃないよ。
- 当時、沖電気では独身寮に最長 8年までいられた(はず)。その後、私の退寮前に、新規入寮生は 6年限になったと記憶している。
- 寮の部屋は狭く、体の大きな同期は「両手を広げると、壁と壁に触れられる」とぼやいていた。公称「4畳間」。しかし、企業によっては 2人で一室というところもある時代だったので、恵まれていたと思う。
- 各部屋には窓設置型のエアコンがあり、15アンペア程度のブレーカーが付いていた。職場の先輩に話したら、「昔はエアコンなんてなかった。ブレーカーもたったの 5アンペアで、電器屋に行って『500ワット以下のヘアドライヤーが欲しい』と言ったら、『お客さん、そんなものないよ。何かの見間違いじゃない?』って笑われた」とぼやいていた。
- 寮には賄いが付いていて、広い食堂室があった。(上にも書いたが、カレーライスは本当に人気で美味しかった。) 土曜日も、賄いで朝食と夕食が食べられたはずだけど、日曜日は休みだった。よく、同期と一緒に外食に行ったのは楽しい思い出だ。
- 食堂室には自販機がいくつか並んでいた。私(横山)は当時からビールでは寝付けなくなっていて、よくワンカップの日本酒を買っていた。同期に見つかり、「ワンカップ大関の横山」とからかわれた。
- 寮には「娯楽室」という畳敷きの部屋があった。入寮説明は、そこであった。同期とよく、そこで深夜まで酒を飲んだり、麻雀をしたりしていた。(私は麻雀ができなくて、同期に少し教わったりした。しかしその同期は「麻雀なんて覚えるもんじゃないよ」と言っていた。)
- お風呂の浴槽は広かった。混雑時には 5〜6人ほど浸かっていることがあったが、一人のときに泳いで遊んだ記憶がある。ただし、夜間中加温されていたかどうかは定かでない。時間によっては、寮長と一緒になることもあり、世間話をしたりした。
- 寮には各部屋に電話線が引かれていて、寮には沖電気製の PBX(確か IX なんとか、とかいう機種名)があり、ダイアルインになっていた。(さすが、電電ファミリーの一翼)
- 玄関にも、内線電話が置かれていた。配属間もない頃は、同期と一緒に出勤することがあったが、時間になっても降りてこないので電話すると、「いま起きた。悪いけど先に行ってくれ」と言われたりした。新入社員がこぞって携帯電話を買い始めたのは、ちょうどその直後くらい。
- 入寮してしばらくして、各部屋に LAN が引かれた。しかし、私はモデムでダイアルアップしてインターネットに繋いでいた記憶しか残っていない。
- 1996〜1997年頃だと思うが、エレベータができた。寮長の S さんによると、部屋の内装工事の際に、寮生が部屋間の引っ越しを容易にできるようにするためだ、という話だった。実際、私も 2階から 3階に引っ越しさせられた。(入寮時は 1階、配属後に 2階、エレベータができた後に 3階に引っ越した。これは、新入寮生や一時的な滞在者を、できるだけ 1階に割り当てるのが目的らしかった。)
- 寮には出入りのクリーニング屋があり、寮のクリーニング室(?)にワイシャツなどを置いておくと、業者がクリーニングして届けてくれた。ただし、その頃から「形態安定ワイシャツ」が流行り始め、需要は減っていったと思う。私は新人の頃しか利用しなかった。
- 私事で恐縮だが、20年を経た今でも寮に住んでいた当時の夢をみることがある。夢の中では、実際の寮より大きく賑わっていて、同僚がたくさん住んでいて、食堂もずっと豪華なのだ。(寮生活は私の貴重な青春だったのだ!)
寮長 S さん編
- 入寮した頃、S さんは皆から寮長と呼ばれていたが、寮長と呼ぶと「俺はマネージャーだ。会社の肩書きがそうなっているんだ。マネージャーと呼べ」と言っていた。当時、沖電気にチームリーダーという名前はあったが、マネージャという職級があったかどうかは定かでない。
- S 夫妻は、寮で大きな犬を飼っていた。寮生が犬をからかうと、S さんに叱られた。
- 風邪(おそらくインフルエンザ)で 40度近い高熱を出したことがある。S さんに相談したら、「三和町診療所(2022年現在、まだ健在のようです)に行け。あそこで注射をして貰えば一発で治る」と言われたので行ったけど、注射はしてくれなかった。
- 一度、タクシーで寮まで帰ったことがあった。南蕨寮に住んでいることを運転手に話したら、「あそこの寮長(S さんのことだと思う)、社会人野球で鳴らした選手だろ?」と言われた。私の知らない話だったので、今でも印象深く覚えている。
- 寮内にセールスマンが入り込むことを、S さんはひどく嫌っていた。どこかの布団屋(丸八だか西川だか)のセールスマンが勝手に寮に入り込んだとか言って、怒っていた。また、近所で床屋が開業して、店主だかその奥さんが寮内の郵便受けにパンフレットを投げ込んでいたら、寮長に叱られた、と話しているのを床屋で聞いた。
通勤編
- 通勤路の駅近くには、埼玉では有名な歓楽街が広がっていた。よく、客引きのお兄さんに「良い子、いるよ」と話しかけられた。私(横山)は奥手だったので、いつも走って駆け抜けていた。
- そんな歓楽街に独身寮があったので、地方から来た同期は、「なんでこんなところに独身寮があるんだ!?」といぶかしがっていた。
- 新人の頃はフレックス適用外だった。寝坊すると出社時刻までに磁気カードを通せないので、遅刻扱いになってしまう。賢い同期は「そういうときは、芝浦(同期の多くの勤務地)でなく、蕨開発センタに行って、そこでカードパスすればいいのさ」とうそぶいていたが、それで遅刻を免れることができたのか、いま現在も定かではない。(つまり、私は試したことがない。) 確かに、社内のカードパスの出退勤データは全てオンライン処理されて総務に送られていたのだろうけど。
飲食店編
- 駅西口の正面にあるビル 2階に、モハラナというインド料理屋があった。当初から気に入って通っていたが(今のように、あちこちインド料理店という時代ではなかった)、その後「貧乏脱出大作戦」とかいうテレビに出演した。(番組をテレビで観たかどうかは記憶にない。) メニューがいろいろ変わって豪華になったが、また元に戻ってしまったようにも思う。(横山が)結婚前に、一度妻と訪れた覚えがある。その後、しばらくしてモハラナは閉業してしまった。
- 鬼沢橋の近くに、トムズハウスという洋食屋(イタリアンにあらず)があった。玉子を使ったスパゲティが好みで、同期とよく通った記憶がある。いまだったら、断然カルボナーラのほうが美味しいと思うのだが、その頃はカルボナーラは珍しかったのだろうか? 玉子スパゲティを再現してみたいけど、味をよく覚えてないし、写真もない。(同名の洋食屋が西川口にあるので、移転したか、従業員が暖簾分けしたのかも知れない。)
- 駅近くには、多くの居酒屋や立ち飲み屋、焼鳥屋があった。いまだったら日参したかも知れないが、当時は(25歳くらい)、あまりそういう店に関心がなかった。ちょっと残念。もっと通っておけば良かった。
当時から健在のお店など
- ラーメン HOUSE リュウビ
- そば処 満留賀
- かづさや酒店
- エスティロ1955(理髪店)
- クリーニング オオバ
- 三和町診療所(上述)
- 河鍋暁斎記念美術館
2022年1月8日更新